3.11の話。

 

少し時期は外れましたが。

 

特に何かを伝えたいわけでもないのですが。

 

でもこういう話っていつどういう伝え方をしても悪くないのかなと思うので。

 

 

ブログ書きたいなーって思っても欅のこと書くことないなーって。

 

思ってたタイミングではてなブログさんから最近書いてなくない?書かない?

って言われたので3.11のこと書きます。

激重。

 

自分語りです。

でもこういう経験をした人間がいるっていうことを皆さんの頭の片隅に置いて頂けたら幸いです。

 

9年が経ちました。

 

いざ。

 

 

ストレートな言い方をすれば原発被災者なんですよ。私。だから東京いるんですよ。

 

福島で黄色とか赤で囲われた半径何キロ圏内みたいなやつニュースで皆さん見たことありますよね。

 

あれの赤い部分に住んでました。

10km圏内。

あえて町名は言いませんが。

 

 

当日は中学の卒業式だったんです。

午前中に卒業式やったんでコロナ世代とは違って卒業はちゃんとできた組です。

 

午後に友達と小学校に挨拶行って18時から焼肉だったんで一回帰ったんですよね。

14時すぎ。

そんで一回寝ようと思った瞬間に布団入ったら聴いたことない音が鳴って。

 

今でこそ構える準備出来ますけど、当時はそんな機能があるってことすら知らなかったんで頭の整理がつかないうちに揺れ始めたのは覚えてます。

 

僕のとこは6強だったんですけど、縦とか横とか分かんない揺れ方するんですよ。

 

円を描く揺れ方って言うのかな。

それで尚且つ地面もガンガン突いてくるんですよ。ハードなトランポリンかと思ったもん。

 

話逸れますけど、女の人って突き上げられる、男の人は突き上げるって表現するらしいですよ。すけべですよね。

 

 

 

話戻しますね。

2分くらい揺れてたと思います。

急いでテレビつけようとしたけど全然着かなくてそこで電気が寸断されたのに気づきました。

 

 

母子家庭で祖父母が免許持ってないんで唯一運転できる母親が出かけてたので祖父母姉俺犬で歩いて、午前中卒業したばっかの体育館に避難してその日はブルーシート広げて寝ました。

 

幸い自宅が山の方だったので津波は大丈夫でしたけど家は多少崩れたし、町としてみたらめちゃくちゃ津波食らいました。

 

体育館に明らかに濡れてる人いたけどあの人奇跡の生還果たしたんだろうな。

 

僕の町では警察官の方が2名殉職されて。

町民逃してたら津波に飲まれちゃって。

二人がいなかったらもっと亡くなってたのかなとも思う。

その2人が乗ってたパトカーが今でも警察署に保存してあります。

みなさんが想像してる以上にインパクトあると思いますよ。

帰省したらそこに行って手合わせてたりもする。

 

 

ほんで次の日。3月12日。

 

前日に連絡取れなかった母親とその人朝にやっと連絡取れて泣いたの覚えてます。

 

その日から原発やべぇってなって朝にはもう隣村の体育館に避難してくださーいってアナウンスされたんですけど、車がないから。

 

車がない人はバス乗ってくださーいって言われて犬抱えて乗りましたよ。

4時間。普段だったら片道2.30分の道を4時間。

 

そこで避難した先の体育館で母親と会えました。そこじゃ泣かなかったな。

 

12日の夜にその体育館もやばいんだけど受け入れ先がないからどうしようって消防団の人が話してるのを聞いて夜中に千葉の叔父の家に行かせてもらって。

3月いっぱいまではそこにいて4月から東京。

 

なんやかんやあって今。

って感じです。

 

 

そのなんやかんやが結構大変でしてね。

 

 

会ったことある人はわかると思いますけどこんなキャラなんで馴染むのも苦労したし、言っちゃいけないことを言われたりもしたんですよ。

 

 

原発!って藤川の真っ直ぐより火の玉ストレート投げてくるやつもいれば。

進学したら宝くじ当たっただけでしょって言ってくるやつもいたなぁ。

 

宝くじの件はショックでしたねさすがに。

 

あくまで自分が言われるのは笑って流せてたんですけど、地元だったり福島に残ってる友達まで言われるのはどうしても我慢できなくて一回だけ高校の友達ぶん殴って謹慎になりかけたことありますけど。

 

あの一回だけですねキレたの。

めちゃくちゃ言われたけどめちゃくちゃ我慢してたと思います。

高校の自分、今より大人かもしれん。

 

 

共感できないと思うし共感されたくもないんですよ。

地元がなくなる感覚なんて僕たちにしか分からないので。絶対に。

 

意味わかんねーもん。

車乗って千葉行ったらもう地元住めませーんって。

 

家、土地、車。

総資産と、育った町の空気も吸えなくなって、いつでも会える距離にいた友達と会えなくなったんですよ。

そりゃある程度補償されなきゃ生きていけないよ。

 

 

中学生だったからケータイ持ってなかった一番仲良かった友達と連絡取れたの1ヶ月後でした。

一番仲良い友達が1ヶ月消息不明なのマジで毎日息苦しいですよ。

また泣いたもんそこで。

 

 

 

 

 

こんだけしんどい思いしたからこっち来て全てがマイナスかって言われたらそれは絶対にNoです。

こっちに来なきゃできなかった経験も、出会えなかった友達もたくさんいるから。

 

楽しい思いはたくさんさせてもらいましたよ。

 

オタクだってそうですよみんないつもありがとうね。

 

 

金で買えないものをたくさん失ったけど

その分たくさん得たものもあるので。

 

こっちに来て良かったかな〜〜〜〜〜楽しいけど〜〜〜う〜〜〜〜ん。

ここで思いっきりYES齊藤京子してしまったらそれは福島に失礼だよな。

って気持ちです。

 

福島で死ぬはずの人間だったので。

 

 

 

復興も進んでますよ。着実に。

 

スーパーも郵便局も新しくできた。

役場もできた。

常磐線も全部通った。

マンションも新しく作って仮設で窮屈な思いしてた色んなお年寄りがそこに戻った。

 

充分。

60.70年住んだ年寄りが自分の地元に戻って生涯終えれるほど幸せなことはないと思いますよ。

 

色んな難しい話はあると思うけど。

まだ9年ですもん。

自分達が還暦になるときに話が終わるかどうかって言われてるんだから。

気長に待ちましょう。

 

 

 

 

他にももっとたくさん話したいことあるんだろうけど今パッと思いついたこと書き殴ったのでこの辺で。

 

少し生々しかったかな。

ソンナコトナイカナ。

 

こういう人間が数万人いることを覚えておいてください。

 

当時募金してくれた方。

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

ps

やっぱりちんこって長さより太さなのかな。

 

 

すいか。