バスの話。

 

人に感化されやすい。

 

 

嫌な笑い方をしたい人はしてくれて良いし、

興味があったら読んでくれたら嬉しい。

 

意識高い系と意識が高い人は全く違う話もしたいんだけど今回は省略する。

 

若林正恭弘中綾香、長濱ねる。

 

三人のエッセイが一斉に更新された。

 

今回は弘中ちゃんのテーマだった"自己肯定感"の話をしたい。

若林もねるも似たような匂いを感じたので。

少しズレることもあると思いますが。

 

 

 

 

生きるのが下手。

生きにくそう。

 

今から7.8年ぐらい前からそう揶揄されるようなった気がする。

ちょうどオードリーのANNを聴き出した時期と被る。まだ若林が人の多様性を認めきれずにダヴィンチやANNで暴れまわってた頃だ。

 

めちゃめちゃ影響されていた。今もだ。

 

 

 

 

非常に生きにくい世の中だと思う。

 

給料が安いとか好きな人とケンカしたとか。

そう言った直接的に生活で感じる生きにくさではない。

 

 

なにもかもがイジられるのだ。

 

 

疲れる。非常に。

 

自己肯定感は世の中的には高い方が良いらしい。僕もそう思う。

たぶんその方が疲れない。

 

だからなるべくなるべく自分を褒めようとするが中々出来ない。

 

おそらく自分の中のハードルとプライドが高いからだ。

 

でもその高いハードルとプライドを飛ぶことが出来て稀に自身を褒める時もある。

 

それを人に話すこともある。

 

しかしそれは僕よりずっと勤勉で有能な人たちにとって僕の体験はしょうもないことらしい。

 

イジられる。

 

でも俺が良かったら良いじゃん。で終わらせるのが自己肯定。

またそこで苛立ち苛まれるものが承認欲求ではないのだろうか。

 

僕はいつもこの狭間で揺さぶられている。

自己肯定を強めすぎるとナルシストと呼ばれる傾向もある。

 

イジられる。

 

他人から褒められることなんて大人になったらそう多くはない。が、たまにはある。

 

頭の回転が速いと褒めてもらうことがある。

自分でも人より喋り始めの一歩と瞬間的に嘘をつくのは上手いと思う。

 

でも滑舌が良くない。

頭の情報量に口元が追いつかない。

噛む。

イジられる。

無能の完成だ。

 

 

ただ自分の長所を人前で言いすぎるとそれは先述のナルシストに分類される。

 

ナルシストはものすごく臆病者で不安症だと思う。自分を肯定しないと押し潰してくる何かに負けてしまうからだ。

 

歌が上手いと自称する人間は腐るほど見てきたし実際上手い。しかし褒められるのはそいつらよりもほんの少し下手な謙虚な連中。

95点出してドヤ顔で変なマイクの持ち方する男より普通にマイク持って90点出した方がモテることを僕は知っている。

 

その空気をナルシスト側も察しているから自分を肯定して守っているんだろう。

 

自分で書いといてなんだが自己肯定にもいろんな種類があるんだろうなと漠然と思った。

 

 

 

4年ぐらい前に友達から自己肯定感が低いニュアンスのことを言われた。

 

 

「今日はたくさん歩いたから帰りはバスに乗ろう。ちょっと頑張ったからスタバ飲もう。

お前そういう生き方してないよね?

だから生きにくいんだよ。

みんなそうやって生きてるんだよ。」

 

眼から鱗だった。

そんな考えに至ったこともなかった。

 

たくさん歩いたから疲れた。

今日はちょっと頑張ったけど明日も頑張らなきゃいけない。

 

そんな生き方をしてた僕の人生に友達は色をつけてくれた。今でも褪せない綺麗な色だ。

 

それを会話の種にするといじってくる連中もいる。それでまた生きにくいと感じる。

 

多様性を持てない人間が多すぎる。

僕自身がそうだ。

 

多様性を持たないという人間の一種の多様性を認めることができない。無限地獄。キリがない。

 

 

世の中の人間全員が大金持ちになったら生きやすい世の中になるだろうか。

 

 

でもそうなると紙幣の価値が下がって。

 

 

嗚呼。

 

 

話の結論もこのブログのオチも上手く見つかりそうにない。

 

結論を出せた時、僕は多様性を認められる良い塩梅の自己肯定感の強い人間になっているはずだ。

 

 

 

明日は出掛ける。

たくさん歩く。

 

 

 

帰りはバスに乗ろうと思う。

 

PS.

勘違いしてほしくないのは決してイジられたくない訳ではない。

お笑い的に面白かったらなんでもアリだ。

むしろそっちでは誰よりもイジられたい。

 

 

 

文責:すいか